この記事のポイント
- ラッセルは当時リーグ屈指の高給取りでも、ルーキー契約はわずか24,000ドル。
- それでもリーグ1の高給だったボブ・クージーの25,000ドルを下回っていた。
- 王者セルティックスの主力の多くが、オフに副業で生計を立てていた。
- 1965年、ラッセルはチェンバレンを“1ドル”上回る年俸10万1ドルを要求した。
数字で見る“稼げなかった”時代
ラッセルのルーキー年俸
1965年、ラッセルが要求した年俸
2026-27シーズンのカリーの年俸との差
プロでも“バスケだけ”では食べていけなかった
現在のNBAは数億ドル規模の契約が当たり前だが、創成期から1960年代にかけては事情がまったく違った。プロリーグと言えど、多くの選手は高収入を望めず、オフシーズンになると普通に別の仕事に就いて生計を立てていたのだ。
驚くべきことに、これはリーグの底辺の選手の話ではない。当時の絶対王者ボストン・セルティックスの主力でさえ、その多くが副業を持っていた。
リーグ屈指の稼ぎ頭ラッセルでも、年俸は2.4万ドル
ビル・ラッセルは現役当時、NBAで最も稼ぐ選手の一人だった。それでも彼のルーキー契約は24,000ドル。当時リーグ1の高給取りだったチームメイトのボブ・クージーの25,000ドルを、わずかに下回る額だった。
リーグを代表するスターの契約でこの水準だったということが、当時のNBAの“稼げなさ”を何より物語っている。
王者セルティックスの主力も、オフは別の仕事をしていた
チャンピオンチームでさえ、主力選手の多くが副業を営んでいた。オフシーズンには、トム・ヘインソーンは保険業者として、ジーン・グアリアはプロのギタリストとして、ボブ・クージーはバスケットボールキャンプのコーチとして働いた。
名将レッド・アワーバックに至っては、プラスチック産業と中国のレストランに投資していたという。そんな中、ラッセルは副業に手を出すことなく、プロ選手としての収入だけで生活できる数少ない選手の一人だった。
“1ドルだけ上回りたい”——ラッセル10万1ドルの逸話
1965年、ウィルト・チェンバレンがNBA史上初の10万ドル契約選手となった。これを知ったラッセルはすぐにアワーバックのもとへ行き、10万1ドルの契約を要求したという。
アワーバックはそれにすぐ応じた。きっかり1ドルだけチェンバレンを上回る額を求めたこのエピソードは、生涯のライバルだった2人の関係を象徴する逸話として、今も語り継がれている。低年俸の時代から、トップ選手の“誇り”をめぐる物語は変わらないのだ。
年俸はどうやって上がっていったのか
選手の年俸が大きく伸び始めたのは、1970年代以降だ。ライバルリーグABAとの選手の奪い合いに加え、1976年にはオスカー・ロバートソンらが起こした訴訟の和解をきっかけに、選手が他球団と自由に契約できるFA制度への道が開かれた。
1981年には、マジック・ジョンソンがレイカーズと25年総額2500万ドルという当時としては破格の長期契約を結び、話題になった。1984年にはサラリーキャップ制度が導入され、リーグの収入と選手の年俸が連動する仕組みが整っていく。
そして2026-27シーズン、NBA.Naviの年俸ランキングによれば、最高年俸のステフィン・カリーは1シーズンで約6260万ドルを受け取る。ラッセルのルーキー年俸の2,600倍以上だ。副業で食いつないだ時代から、NBAは世界有数の高給リーグへと変わった。
年俸が上がっていった流れ
- 1ルーキー時代
スターのラッセルでも年俸2万4000ドル。
- 21965年
チェンバレンが初の10万ドル契約。ラッセルは10万1ドル。
- 31976年
訴訟の和解をきっかけに、FA制度への道が開かれる。
- 41981年
マジックが25年総額2500万ドルの長期契約。
- 52026-27
最高年俸のカリーは約6260万ドル。
